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社会人でPSW(精神保健福祉士)とキャリコン勉強中のひと

社会人歴、はや20年近く。第15回キャリアコンサルティング2級技能士、第18回精神保健福祉士を同時に受けた時の記録とか、社会人入学から4年かけて卒業した大学院の話題とか。

好きだったけど苦手だった聖書の箇所がハラオチした件 

パウロが死の直前に書いたという第2テモテ4章5節~8節(新約聖書)は確かに感動的だし、胸に迫る。寝食を忘れて命を懸けて福音のために壮絶な人生を生きたパウロを知れば知るほど、この言葉の真実さを感じる。

 

でもね。

 

第2テモテ4章5節~8節

5しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。 7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

 

問題は、自分の人生への適応がすごーくイメージしづらい箇所だっていうことだ。メッセージを語る牧師や宣教師本人は確かに、福音のために脱サラをして、神学校を出て、すごい人はリアルに言葉の通じないジャングルまで行って宣教し、文字通り命の危険にさらされ、あらゆる余分なものを捨てて主に従う立派な人生を生きている。礼拝メッセージでもたいてい、立派で有名なクリスチャンの生きざまとともに、この聖書の箇所は語られる。

 

そのたびに、立派でもなく宣教に命を懸けるどころか毎日の小さなことに振り回されて情けない人生を生きている自分を思い、メッセージには感動するのだけれど、同時になんだかアウェイな、居心地の悪い感じを受けるのだった。

 

でも、み言葉の理解にも「時」があるのだ。今日の礼拝で初めて、この箇所が自分の中に、すとん、と音を立てて落ちてきた。

 

9月末、大阪のある教会の主任牧師が、旅行先の地で本当に突然、44歳の若さで召天した。コーヒーショップのさわやかな朝の写真をフェイスブックに載せた数時間後。私の通う教会の主任牧師の弟だったから、時々こちらにもメッセージしに来ていた人だ。家族のように慕う人が大勢いた。大きな責任を担い、多くの人に頼られる現役牧師が、それもこの若さで幼い子供も残して、なんの前触れもなく天に召されるというのは、あまりない事態だと思う。驚きと混乱がまだ残る中、アメリカで行われた祝福に満ちた葬儀の報告とともに、今日のメッセージがあった。

 

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主題は信仰の継承について。

あなたは何を継承して、何を残すのか。今日突然、天国に行くことがあったなら。

 

パウロのいう走るべき行程=人生のレースは、いうまでもなく福音のため。

サラリーマンがいる。学生がいる。専業主婦がいる。じゃあ牧師でも宣教師でもないあなたは、レースを走っていないのか。

会社に行くこと、学校に行くこと、子育てをすること、それがいったい何なのか。

自分は〇〇株式会社の社員です。それが福音のために何になるのか。意味がないんじゃないか。

 

そう疑問に思うでしょう。自分の人生のレースと福音に何の関係があるのか、分からない。そう思うでしょう。

 

それが何であるか、400人もこうして集まっている一人ひとりのために、牧師はアドバイスできません。

 

でもね、皆さんのところにいる聖霊様はすでに知っています。あなたが何のためにその会社にいるのか、なんのためにその学校に、その場所に使わされてるのか。知っています。尋ねてください。祈り尋ねてください。

 

あなたが日々取り組んでいることが福音にどうつながる方法があるのか。聞いてください。

 

すべてが福音につながるように祈ってください。

 

どうぞ成功してください、出世してください、お金をたくさん儲けてもいいのです。それらをすべて福音につなげてください。

 

私と妻は福音のために子育てをしています。この子育てが福音につながらなければ、すべての苦労は何にもならない、と思っています。

 

・・・メモも取らず、以上、心に残った言葉だけを走り書き。

 

同じようなメッセージはこれまでも聞いていたのかもしれない。でも今日はじめて、このみ言葉が自分の中に植え付けられた、と思う。

 

ここ数週間、数か月、一つのことを目指して頑張っている。祈って、確信をもって踏み出した道のはずなのに、心が時々ゆらぐ。投げ出そうかと思う。圧倒的な自分の能力不足を感じるとき。圧倒的な経験不足を感じるとき。大勢のライバルがいて、その人たちに到底自分はかなわないと感じるとき。これは神様の導きだと自分が勝手に思い込んでいただけで、滑稽で恥ずかしい、独り相撲をしているのではないのかと。

 

でもその疑いの雲が今日、晴れた。キリストは罪も恥も取り除かれる。

 

私がいま踏み出していることは、先の人の信仰の継承であると、今日の礼拝ではっきりと気づかされた。ざっくりいえば、ソーシャルワークの世界の話である。ソーシャルワークを福音のゆえに作り上げた先人たちが大勢いることは知っていた。今、自分が取り組んでいることは、形は多少違っても、その人たちが完成を目指したものを継承するものであるのだという確信を今日礼拝の中で得た。

 

マタイの福音書22章

37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 

 

 へブル人への手紙12章  

1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。