「社会人が研究計画書でやりがちな勘違い」
大学院に社会人入学して、かなり最初のころ、まだ研究計画書を練っているような段階の授業で、教授に言われたことを思い出します。
「よくありがちな研究計画書の勘違い、”私はこの研究を通して、新しい理論を生み出したい”」
「あるいは、もっとすごいのが”私はこの研究を通して、新しい学問を生み出したい”」
「いいですか、みなさん、」
「新しい理論なんて、そうそう簡単には生まれません!」
「熟練の研究者でも、新しい理論を一生涯に一つ生み出せるかどうか。そんなものが、修士の2年ぐらいじゃまず生まれません。みなさんは会社でいろいろな経験を積んでいらっしゃるでしょう。ご自身の仕事の実践の中で、日々新しいものを生み出していらっしゃるでしょう。でもね、学問はそうはいかない」
「ドクターぐらいなら、”概念”はあるいは生まれるかもしれません。”概念”の上位にあるものが”理論”です。その理論の上にあるものが”学問”です。最近はマスコミで”~学”なんて簡単につけたがりますが、学問は理論よりさらに上です。新しい学問なんてそうは生まれない。”~学”と呼ばれているものの多くは、実際には理論だったり概念だったりします。」
社会に出て何年も経つと、自分は何か新しいものを生み出してきたかのような錯覚や勘違いに陥るもの。
でも日々の実践を「理論」「学問」という切り口から見直すならば、それは決して新しくない「すでにあったこと」かもしれません。
また別の授業で別の教授が言った言葉。
「学問、研究っていうのはつまり、何年、何十年、何百年とかけて、たくさんの研究者たちが積み上げてきた石の塔の上に、自分の小さな石を一つ、そっと置くだけのものなんですよ」
だから、研究計画書にしろ、論文にしろ、先行研究調査が大事なんです。先行研究というのはつまり、「どの石の塔の上に、自分の小さな石を置かせてもらうか」ということです。
先人の作った塔なんて関係ない、俺は俺の文脈でまったく新しい研究をするんだ、という人がもしいるなら、それは道路に自分の石ころを投げ出すと同じこと。
少なくとも学術では誰からも相手にされない、むなしいことです。
(それがもし巨万の富を生み出す何か新しい発明であるなら、もっと別の人たちがたくさん集まるはずですが。)
授業を聞きながら、旧約聖書のコヘレトの言葉(ソロモン王、”伝道者の書”)を思い出したものです。
第3章9~10節:
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
「謙虚さ」って学術にどうしても必要なスキルです。