好きだったけど苦手だった聖書の箇所がハラオチした件
パウロが死の直前に書いたという第2テモテ4章5節~8節(新約聖書)は確かに感動的だし、胸に迫る。寝食を忘れて命を懸けて福音のために壮絶な人生を生きたパウロを知れば知るほど、この言葉の真実さを感じる。
でもね。
第2テモテ4章5節~8節
5しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。 7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
問題は、自分の人生への適応がすごーくイメージしづらい箇所だっていうことだ。メッセージを語る牧師や宣教師本人は確かに、福音のために脱サラをして、神学校を出て、すごい人はリアルに言葉の通じないジャングルまで行って宣教し、文字通り命の危険にさらされ、あらゆる余分なものを捨てて主に従う立派な人生を生きている。礼拝メッセージでもたいてい、立派で有名なクリスチャンの生きざまとともに、この聖書の箇所は語られる。
そのたびに、立派でもなく宣教に命を懸けるどころか毎日の小さなことに振り回されて情けない人生を生きている自分を思い、メッセージには感動するのだけれど、同時になんだかアウェイな、居心地の悪い感じを受けるのだった。
でも、み言葉の理解にも「時」があるのだ。今日の礼拝で初めて、この箇所が自分の中に、すとん、と音を立てて落ちてきた。
9月末、大阪のある教会の主任牧師が、旅行先の地で本当に突然、44歳の若さで召天した。コーヒーショップのさわやかな朝の写真をフェイスブックに載せた数時間後。私の通う教会の主任牧師の弟だったから、時々こちらにもメッセージしに来ていた人だ。家族のように慕う人が大勢いた。大きな責任を担い、多くの人に頼られる現役牧師が、それもこの若さで幼い子供も残して、なんの前触れもなく天に召されるというのは、あまりない事態だと思う。驚きと混乱がまだ残る中、アメリカで行われた祝福に満ちた葬儀の報告とともに、今日のメッセージがあった。
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主題は信仰の継承について。
あなたは何を継承して、何を残すのか。今日突然、天国に行くことがあったなら。
パウロのいう走るべき行程=人生のレースは、いうまでもなく福音のため。
サラリーマンがいる。学生がいる。専業主婦がいる。じゃあ牧師でも宣教師でもないあなたは、レースを走っていないのか。
会社に行くこと、学校に行くこと、子育てをすること、それがいったい何なのか。
自分は〇〇株式会社の社員です。それが福音のために何になるのか。意味がないんじゃないか。
そう疑問に思うでしょう。自分の人生のレースと福音に何の関係があるのか、分からない。そう思うでしょう。
それが何であるか、400人もこうして集まっている一人ひとりのために、牧師はアドバイスできません。
でもね、皆さんのところにいる聖霊様はすでに知っています。あなたが何のためにその会社にいるのか、なんのためにその学校に、その場所に使わされてるのか。知っています。尋ねてください。祈り尋ねてください。
あなたが日々取り組んでいることが福音にどうつながる方法があるのか。聞いてください。
すべてが福音につながるように祈ってください。
どうぞ成功してください、出世してください、お金をたくさん儲けてもいいのです。それらをすべて福音につなげてください。
私と妻は福音のために子育てをしています。この子育てが福音につながらなければ、すべての苦労は何にもならない、と思っています。
・・・メモも取らず、以上、心に残った言葉だけを走り書き。
同じようなメッセージはこれまでも聞いていたのかもしれない。でも今日はじめて、このみ言葉が自分の中に植え付けられた、と思う。
ここ数週間、数か月、一つのことを目指して頑張っている。祈って、確信をもって踏み出した道のはずなのに、心が時々ゆらぐ。投げ出そうかと思う。圧倒的な自分の能力不足を感じるとき。圧倒的な経験不足を感じるとき。大勢のライバルがいて、その人たちに到底自分はかなわないと感じるとき。これは神様の導きだと自分が勝手に思い込んでいただけで、滑稽で恥ずかしい、独り相撲をしているのではないのかと。
でもその疑いの雲が今日、晴れた。キリストは罪も恥も取り除かれる。
私がいま踏み出していることは、先の人の信仰の継承であると、今日の礼拝ではっきりと気づかされた。ざっくりいえば、ソーシャルワークの世界の話である。ソーシャルワークを福音のゆえに作り上げた先人たちが大勢いることは知っていた。今、自分が取り組んでいることは、形は多少違っても、その人たちが完成を目指したものを継承するものであるのだという確信を今日礼拝の中で得た。
マタイの福音書22章
37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
へブル人への手紙12章
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
電通新入社員の過労自殺、新卒のメンタルヘルス
東大卒の電通社員であったこと、とても綺麗な方であったこと、SNSが残っていることなどで、ネットでも注目ニュースになっていました。
新卒新入社員の自殺の話は残念ながら時々耳にします。知人の職場でも、有名私大を出て大手商社に入社した息子さんを入社直後の6月に自殺で亡くした方がいました。それとよく似た事例の親の手記を、最近、別のところでも読みました。頑張り屋さんで、学生時代もそれなりに認められていた人。会社に入ってからも認められるように、否定されないようにと、一人奮闘していたところに共通点がある気がします。
閉鎖病棟に実習したときも、有名大学を出て大手企業に入社した女性が新人研修を終えて現場配属された直後に、自殺企画により入院していました。うつ病との診断でした。
一昨年は就活中の自殺数の増加が話題になりましたが、大変な時期を切り抜けて、憧れの企業に入社してまた起こる悲劇。今回のニュースではSNSから本人の時系列の心情や周囲の環境が読み取れたことで、職場環境にも大きな問題があったことが推測されています。
私の勤める会社にも、新卒から半年から1年程度で休職する人が時々出ます。営業数字を持たされた直後が多いようです。数か月して復帰し、配置転換後は、元気に周囲に溶け込み、働き続けている人が多いです。
ただでさえ、学生から社会人への切り替えは生活も環境も大きく変わり、心と体も疲れやすくなる時期。中高年の危機、働き盛りの危機、産後の危機、人生には様々な危機があるとおもいますが、新卒特有の危機にも会社はしっかり目を向けていかなければならないですね・・・。
知的生産の技術/梅棹忠夫「発想はメモに残す」「複写を残す」「ノートからカードへ」「線の引き方=二重読み」「読むと”みる”の違い」
新しい実用本ばかり読む自分にとって、1960年代の書籍を最初から最後まで読了するというのは珍しい経験かも。だいたい皆同じ感想を持つと思うが、知的生産の技術は、時代が変わっても原理原則は変わらないことを認識させる。以下印象に残ったところをピックアップして感想を残す。
「発想はメモに残す」
ヒラメキやアイディアを宇宙線に例えていて面白い。<誰の頭にも平等に宇宙線は降り注いでいるのに>、メモに残す人と残さない人がいるという表現。梅棹先生にはカードと万年筆があった。我々にはスマホがある。Evernoteがある。ブログがありTwitterがある。これ以上ない検索性。ありがたい時代だなと思う。
「複写を残す」
この時代、複写といえば、ペンと紙で書き写すことを言った。<提出論文の複写>って今と当時の違いを想像するだけで気が遠くなる。現代に生まれてよかった・・・。
「ノートからカードへ」
ノートからカードへ整理法を変えていく過程は丁寧に書かれていて、とても納得感の感じられるものである。工夫、こだわり、思い切りの積み重ね。この方の場合、周りの研究者のやり方を取り入れたり参考にしたりと、本人も友人に恵まれていると書く通り、周囲との切磋琢磨による工夫改善が優れている。そのうちの一人にKJ法の川喜田二郎がいるというのも素敵すぎるエピソードです。
「線の引き方=二重読み」
読書時に、2本以上のペンや色を使い分けるとき、そのルールが人によって違うのが面白い。梅棹は、「大事なところ」と「面白いところ」で線を引き分けるという。前者は筆者の主張に追随して感心したところ、後者は読者である自分の感じ取ったこと。後者を「筆者とは別の『あらぬこと』を考えながら読んでいることの証拠」とした表現が面白い。本を二重に読むということ。割と誰もがしていると思うが、プロになるほど、聞かれて答えられるような明確なルール化があるように思う。
院に、「納得したこと」と「納得できない腹が立つこと」の二色に引き分けているという先生がいた。社会学の先生っぽくてこれも面白いね。
「読むと”みる”の違い」
耳の痛い話。本は最後までしっかり読了するものと、つまみ食いして読むものがあるけれど、前者を「読む」として、後者は「みる」とする。本にはその構成も含めて著者の思考体系があるわけだから、「読んだ」本でないかぎり、少なくとも批評はしないという。これは現代社会への教訓と思う。ネットにおけるキュレーション(まとめサイトみたいな)の盛り上がりで、情報とはつまみ食いする(べき)ものだと、いつのまにか道理となってしまった気がする。ナナメ読みならまだいいが、目次を見て関心の無いところは読むなと指南する者までいる。論文だってアブストラクトと本文の最後しか読まなかったりするのは当たり前。でもそれじゃ本質に触れたことにはならないんだよね。確かに。
”みた”だけで、偉そうに本を語らない。
リハビリテーションカウンセラーの機能、教育、能力、隣接領域との比較
----------引用ここから
リハビリテーションカウンセラーの機能 P.79
- アセスメントと査定
- 診断と治療計画
- キャリア・カウンセリング
- 障害の医学的、心理的影響に適応するための個人カウンセリング
- ケース・マネジメント、りふぁー、支援のコーディネーション
- プログラム評価と研究
- 環境、雇用、社会的態度に見られる障壁をなくすための介入
- コンサルテーション ※ほかの専門領域も備える場合、少数ケース
- 職業分析、職業開発、職業斡旋
- リハビリテーション・テクノロジーについてのコンサルテーション
働く場と隣接領域の違い p.84
(働く場)
- 州の機関・・・100~150人のクライエントを担当 障害全般に対応
- 民間機関・・・30人程度のクライエントを担当 特化、専門型、じっくり
- 保険会社・・・保障対象者の就労支援
- 大学・・・急増している
- 病院
(隣接領域との違い)
- OT、PT
- 就労支援、
- キャリアカウンセラー
- ソーシャルワーカー
リハビリテーションカウンセラーは、上記すべての領域の中間に位置する。
OP、PT的医学的知識も持つし、ほかの領域のカウンセラーと同様のカウンセリング能力も持っている。
キャリアカウンセラーのように職業適性を評価し、仕事のあっせんをすることもできる。
ソーシャルワーカーのように社会資源をいかしてクライエントをサポートすることもできる。
→ちょっと疑問 これらのことができるかどうかは、個人の資質だけでなく、所属機関の機能依存の部分も大きいのでは?本当にすべてに対応できるのか?
「障害」と「キャリア」の二つの大きな課題の接点に焦点を当てていることが、隣接領域との大きな違い。
リハビリテーションカウンセラーの教育 p89
COREという団体がリハビリテーションカウンセラーに必要な知識、能力を定めている。学部と大学院の教育プログラムを作成し、教員組織などをそろえた大学を認定する。認定校は100以上にのぼる。資格取得のためには認定校の修士課程のプログラムに入る必要がある。学部も存在するが修士への布石的役割。
修士卒業生はCCRCという資格認定機関の試験を受け、6割以上の合格率で合格となる。5年ごと更新が必要で、維持講習は100時間以上。
- 専門領域のアイデンティティ
- 社会・文化の多様性にかかわる問題
- 人間の成長と発達
- 雇用とキャリア発達
- カウンセリングとコンサルテーション
- グループワーク
- 査定
- 研究とプログラムの評価
- 障害の医学的、機能的、環境的、社会理心理的な側面
- リハビリテーションのサービスと社会資源
----------引用終わり
支援専門職の専門性と連携について研究したい私は、CCRCの資料もこれから取り寄せてみた。それにしても、上掲のリハビリテーションカウンセラーの機能はまるでスーパーマンである。OPもPTもソーシャルワーカーもキャリアカウンセラーもすべて含んでいるよというようなこれだけの機能を、2年間の修士で学ぼうというのは一体、可能なんだろうか。奥行はどのくらいのものなんだろうか。
パクチー食べ放題のお店(パクチーブレイクスルーとパクハラ)
パクチーブレイクスルーというのがあって、嫌いだったパクチーをある瞬間から食べられるようになり、その先は無類のパクチー好きへ成長していくことを指すそうです。自分は26歳のころ、知人の家で経験しました。パクチーと白身魚の刺身とタレを和えたお料理でした。
でも世の中、ブレークスルーをまだ知らない人も多いので、気遣いが必要です。
パクチーが嫌いな同僚を、パクチーランチに誘うことをパクハラと言います。加害者にならないよう、気を付けたいものですね。
銀座、新橋エリアのパクチー特集のページがありました。
どれも一度は行ってみたいですが、自分が知る限り、都内で一番リーズナブルに無制限にパクチーを堪能できるのはここ↓だと思います。ランチタイムが平日も土日もビュッフェになっていて、パクチーも食べ放題に含まれています。
最近はパクチーを扱うお店が怒涛の勢いで増えていますね。
第1回キャリアコンサルタント国家試験・・・2つの試験機関で合格率が違いすぎる
9月末、第1回キャリアコンサルタント国家試験の合格発表が行われました。
キャリアコンサルタントの国家資格に準ずる試験は3つあって、指導レベル、熟練レベル、標準レベルと難易度わけされています。いずれかに合格して国家資格登録をしないと「キャリアコンサルタント」と名乗ることができない名称独占資格。(2016年10月から)。
「指導レベル」とされ、合格率は4%前後。キャリアコンサルタントに対する指導が実技試験に組み込まれています。経験10年以上で受検可能。(または2級合格後5年経過)。→合格と同時に③のキャリアコンサルタント国家試験にも合格したものとみなされます。
「熟練レベル」とされ、合格率は14~16%。経験5年以上で受検可能。(または標準レベル合格後3年経過)。→合格と同時に③のキャリアコンサルタント国家試験にも合格したものとみなされます。
③キャリアコンサルタント国家試験(年3回) 2016年新設
「標準レベル」とされ、2016年3月までに行われていた厚労省の旧標準レベル認定試験(CDAとかGCDFとか産業カウンセラー協会のキャリアコンサルタント試験とか)を引き継ぐような存在。経験3年で受験可能。未経験でも140時間の講習を受ければ受検可能。
で!今回、③のキャリアコンサルタント国家試験第1回が行われ、9月末が最初の合格発表だったというわけですが、そこで思いがけない展開が。
なにか大人の事情があって、キャリアコンサルタント国家試験は2つの試験機関が認定されています。1つが「キャリアコンサルティング協議会」で、上記①②の技能士試験をやっている機関、もう1つが「日本キャリア開発協会」で、要はJCDAの試験機関。
なにがびっくりって、同じ国家試験なのに、両機関の合格率が全く違ったこと。「日本キャリア開発協会」は約37%、「キャリアコンサルティング協議会」は約60%!
試験内容もずいぶん違い。学科は共通問題だからよいものの、論述はてんでバラバラ!開発協会は論述問題だけで5ページもあって、協議会は1ページ。面接試験も設定も方法もバラバラ!評価項目までバラバラ!
これってどうなの~^^;
私は社内の資格受検者の世話役をやっていますが、実務経験者が多いことや技能士試験とのツナギの良さを考えて、キャリアコンサルティング協議会の方を受検機関として推奨していました。(技能士受けるときにテキストも買いなおさなくていいし)。
そのおかげあってか、今回、社内からはずいぶんと多数の合格者が出ているようです。
でも合格率が逆だったらと思うと・・・だいぶん恨みを買ったのではないかと、へんな汗とモヤモヤな気分がぬぐえないまま、第1回キャリアコンサルタント国家試験は幕を下ろしました。
次回以降はしっかり調整されるのだろうか・・・。